歴 史
大正14年神竜寺の住職であった故秋元梅峯師が霞ヶ浦海軍航空隊殉職者の慰霊と不況にあえぐ商店街復興のために、私財を充てて霞ヶ浦湖畔で花火大会を開催 したのを始まりに、社団法人日本煙火協会の全身である日本煙火工業会の会長を永く務められた本市出身の花火師、故北島義一氏によって堂々と育まれてきまし
た。
当初は二日間にわたり尺玉をメインに開催されてきましたが紆余曲折を経て一日開催となりました。
打上場所は霞ヶ浦湖畔、桜川匂橋付近で打上られたこともありましたが、昭和47年(第41回)に現在の桜川河畔大曲付近に移されました。
土浦の花火大会の特徴の一つとして秋に開催していることが挙げられますが、これは農村の稔の秋を祝い、農村人の勤労を慰めるという趣旨からで商店界が農村に対する日頃のご愛顧に報いる感謝の意味でもありました。
また、スターマインの歴史は土浦の花火の歴史とも言えます。スターマインはいわゆる速射連発で,数百発の花火を絶妙なタイミングと多彩な変化で秋の夜空を 彩る光景は圧巻です。通常の花火大会でフィナーレを飾ることが多いスターマインですが,以前は仕掛花火の裏打ちとしてしか扱われませんでした。昭和34年
(第28回)に「速射連発の部」が協議部門に加わり独立して扱われるようになり、以来スターマインの部において激しい競争が繰り広げられました。特に静岡
県の田畑煙火が11年間連続で優勝し,関東勢の参加者が田畑煙火を破ろうと挑戦しましたが、どうしても勝つことができず、田畑煙火は無敗のまま勇退したと
いう歴史があります。この激しい競争が土浦の花火を全国に広める結果となりました。
昭和36年には日本で初めて通商産業大臣賞、中小企業庁長官賞が授与され、これらの賞をとることが花火師にとって最高の栄誉となりました。平成12年からは内閣総理大臣賞が授与され現在に至っています。
スターマイン
尺 玉
創作花火